緑の栗鼠と団栗の樹の芽。
 
動物キャラの限界突破とかを目論むブログです。
 



朱鬼。

今回は仮面ライダー響鬼関連です。
ちょっと、視点の偏った記事です。
動物キャラと直接関係のない事柄です。
興味のある方だけどうぞ・・・
後で斬鬼さんの事も書くかもです。(記事書くのに時間かかりそうなので、HPの更新をある程度してからですが・・・書かなかったらごめんちゃい。)



10月24日(月)03:03 | トラックバック(0) | コメント(3) | HP関連外で興味関心のある事など。 | 管理

コメントを書く
題 名
内 容
投稿者
URL
メール
オプション
スマイル文字の自動変換
プレビュー

確認コード    
画像と同じ内容を半角英数字で入力してください。
読みにくい場合はページをリロードしてください。
         
コメント

 1: 朱鬼1

今回の「仮面ライダー響鬼」を見て、考え込みモードに入っちゃいました。

「怒り」だとか「憎しみ」とか「復讐」とかのテーマは、僕自身が割と「怒っている者」、「憎んでいる者」、「復讐しようとしている者」にちょっと感情移入してしまう方なので、それを肯定するという程ではないですが(愛する者を失った状態は肯定できません。そうなった時点でもう元には戻れませんから。)、否定だけするという訳でもないのです。

朱鬼の憎しみは、(本人がそうありたいという意味で)もう目的の為なら手段を選ばない、犠牲も厭わないところまでいってしまってました。現代の視点から見たら許されない事です。
宗家の威吹鬼が、道を外れた朱鬼を始末する事を命じられますが、正直ボンボン育ちの威吹鬼に朱鬼の悲しみ、痛み、そして闇を理解する事など想像はある程度(恐らくかなり貧弱なレベルでしか)しか出来ないでしょう。この辺りは色々な言い分があると思いますが、正直今回の威吹鬼は「体制側の犬」っぽく見えました。もちろん彼にも葛藤はありましたが・・・・・・

そもそも、朱鬼の時代(100年ぐらいは前?かな。もっとか?)の鬼は、DAなど使う必要も無く式神を使役出来ましたが、現代の鬼はエースの響鬼でさえDAに頼っています。
最近の鬼の能力の弱体化ははっきり想像する事は出来ないのですが、科学技術によるサポートが呪術的能力を必要としなくなった事があると思います。個人の能力で大きく変動するであろう呪術より、科学で規格化されたDAなどの方が万人に使いやすくなると思います。そして、科学による能力の規格化、鬼自身の能力の弱体化は、管理する側にとっても(猛士という組織を悪く言いたい訳ではないのです。ただ、「宗家」というものの存在は必ずしも僕にいいイメージを抱かせません。どうしても伝統系シキタリ的なものが存在してしまうはずです。それは公式のように働いてしまい、柔軟な対応が出来なくなります。故に威吹鬼などに「鬼払い(朱鬼討伐)」を命じてしまうのです。斬鬼がいたから良かったものの・・・)都合のいい事かもしれません。

恐らく朱鬼は、現代の観点からでは想像も出来ない厳しく辛い時代を生きてきたと思われます。当然第2次世界大戦も経験してるでしょうし、鬼に対して現代のようなサポート体制も整ってなかった事でしょう。当然現代の鬼に比較して不幸な身の上の鬼も多かったでしょうし、当然鬼の戦いも熾烈極まるものだったのではないでしょうか。場合によっては仲間を犠牲にしなければならなかった局面も現代より多かったでしょうし、そこまで非情に徹しなければ勝てなかったのかもしれません。
現代の視点からして朱鬼はイカレた感じに見えますが、「昔」の視点からすれば「現代」は甘い事この上ないでしょう。

朱鬼は轟鬼のおばあちゃんより上らしいですが、彼女にも同期の鬼はいたはずです。彼女の口ぶりからして仲間の鬼の能力も朱鬼同様高いレベルであったでしょうが、作品の雰囲気からして全員死んだ、もしくはあらかた死んだと思われます。(違ったらごめんなさい・・・)そして、朱鬼の寿命から考えると恐らく仲間の鬼は戦死したのでしょう。
それほど厳しい戦いの場では、根本的に能力の、戦いにたいするモチベーションの弱体化している現代の鬼では絶対対応出来ないでしょうね。
これは、全くの妄想でしかないのですが宗家の高位のものは、朱鬼のように呪術的能力も持っているかもしれません。偉すぎてその存在を一部のものにしか知られてないでしょうけど・・・
その存在は、現代という比較的緩い時代に対応して鬼の能力を弱体化させて、朱鬼のように手に余る鬼が出ないようにしてるのかもしれませんね。


 by 樹中遊路(森の管理人) | 10月24日(月)03:09

 2: 朱鬼2

小暮さんが出てきた当初は、
「何この人(汗)?」
とか思っちゃいました。
まあ、その強力なキャラですぐ確固たる人気を打ち立てましたが(笑)。
で、小暮さんが作った「アームドセイバー」、強力すぎて敵にその力を弱くしてもらうまで使える者のいない不良品(アギトのG3-Xみたいな感じ)かと思ってました。お笑いの前フリかと・・・(笑)
しかし、小暮さん世代の考えからして、魔化魍対策にはこれ位の強力な武器が必要で、「まさか」使いこなせないなんて・・・・・・て感じかもしれません。
今回の響鬼を見た後だと・・・

轟鬼は朱鬼の犠牲を厭わない戦いを
「あんまりだ!」
と言います。もはや、現代、というか現状においてはその通りであり、朱鬼の行為は許容される余地は無いでしょう。
しかし、朱鬼の時代では犠牲の伴う戦いがそこまで否定されたでしょうか?確実に現代より熾烈であったと思われる(朱鬼世代の鬼は恐らく戦死したところからして)戦いにおいて、犠牲は今より当然の事だったと思います。
そして、その行為をしたからといって「優しさが無い」、「人間性が無い」、とは一概に言えないのではないでしょうか?
朱鬼は、自分も含めて(これは劇中で証明された事ですが)鬼が命を落とすのは当然と言うのは、覚悟の表れであり人間性の欠如ではないと思います。
その証拠に、斬鬼を犠牲にしきれなっかったのは朱鬼世代の仲間に言わせれば、
「甘いな・・・(どういう意味であれ。)」
なのだと思います。

朱鬼は、復讐鬼です。
彼女の行動は色々な者を傷つけました。特に裁鬼とか・・・(汗)
もはや、今の時代にそぐわない者でした。
憎しみの究極は、憎んでいた者により近づいてしまうという事です。
それでも、僕は復讐に生きる者に許されないとわかっていながらも、それでも尚、その姿に美しいものを感じてしまいます。
ただし、それはごく個人的な理由に限ります。
宗教や差別とかそんな憎しみは許さない。
確実に己の快楽や利益の為だけに愚行を犯す事など、醜悪極まる・・・(宗教は、天国に行けるという利益があります。差別は自己保身、ストレス解消、安っぽい優越感です。)


 by 樹中遊路(森の管理人) | 10月24日(月)03:10

 3: 朱鬼3

朱鬼のそれは肉親への愛ゆえでした。
長い年月の果てに憎しみにまみれてしまいましたが・・・
しかし、愛する者を殺されて、乗り越えられる程の悲しみ、殺した存在を許せる程にしか怒りを感じない人間というのもどうかと思うのです。
僕は「許す」という行為が想像を絶する精神力を必要とすると頭ではわかっています。
憎しみを克服するには、「許すという究極の行為」で、戦わない事こそが、憎しみの連鎖を終わらせる究極の理念であると思います。
それが、自分の愛する者を奪った者も含めて世界を幸せにする事でしょう。

・・・「許さない」という事、それもまた究極の愛です。
自分の大切な者を奪った者を排除しようとするのは、失われた者へのたむけ、自分の愛した者へのせめてもの愛の証です。
もちろん自己満足もあります。(それは、許すという行為にもあるでしょう。僕は自己満足を否定はしません。それに溺れない限り)

怒りや憎しみは確かに力になります。力を求めます。その分、視野はある程度どうしても狭くなってしまいますが。
力は、人を救う事も飲み込む事もしてしまいます。
怒りや憎しみは、力を復讐に向けます。
その力は、精神に想像を絶する苦痛を伴います。
本来、愛情の深い者でなければ復讐に走る事はありません。
無ければ憎いとか思わないので。
強くなれば、もう奪われなくなるでしょう。守れるでしょう。
次第に暴走し、見境がなくなる心に振り回されながら・・・

朱鬼と「謎の紳士、淑女」のやりとり、一見朱鬼は「謎の紳士、淑女」の言うとおりに「魔化魍」側になっちゃったみたいにとれるかもしれないです。しかし、朱鬼はあっさりそれを否定し、紳士淑女もあっさりそれを受け入れます。
・・・このやりとりは、色々想像させられるシーンでしたが、朱鬼が、
「自分ほど鬼であるものはいない。」
というのは、僕は納得出来ました。現代の鬼の定義からは外れてはいますが。
「鉄火の意志で敵を討たねば、守れない時代の鬼」としてはそうだと思います。

全くの想像ですが、朱鬼の時代の鬼は、多かれ少なかれ朱鬼にシンパシーを抱く鬼が多かったように思います。現代のように緩くない時代には、不幸な身の上、そしてそこからくる心の傷も理解してくれる者も(悲しい事ですが)多かったと思います。
なので、鬼としての戦いで、自分や仲間を犠牲にするという事もやむを得ないという考えも現代よりは受け入れられてたと思われるのです。その事は感情の欠如ではなく、同士としての覚悟だと考えてしまうのです。

人というものは、人の痛みをあまりにも理解出来なさ過ぎる事があります。
あきらが、威吹鬼でなく朱鬼になびいたのも、実感として自分の痛みをわかってくれる者を選んだからだと思います。
威吹鬼は、裕福ゆえの余裕からくる親切さは持っています。しかし、温室栽培ゆえに心の闇を心の闇(怒りや憎しみ→無理に良く言って愛の証)と簡単に済ませてしまいました。あきらにとってそれが一番重要な事なのに。
実感のともなわない言葉は力を持ちません。
僕はこういうところから、一様に「怒るな、憎むな。」と言う人にちょっと不満を持つのです。
何故?と。
奪われたものの悲しみに思いがいたらないのかと。
君は怒らないのか?憎まないのか?と。
そんなものなのか?君の愛はと。
(勿論、復讐に走らない人全てを否定しません。そうする事で不幸の連鎖を終わらせる事ができるのですし、その道が苦難の道であるのがわかりますから。)

朱鬼は、最後には自分を犠牲にします。
時代遅れの鬼。
しかし、彼女から繋がって現代の鬼がいるのです。(彼女も何人もの鬼を育ててきてたらしいです。)


 by 樹中遊路(森の管理人) | 10月24日(月)03:11


(1/1ページ)